・俳人2016/09/14 15:46


   小説の題名は放哉の句「障子あけて置く海も暮れ切る」から。
 

俳人「尾崎放哉」の半生を書いた「海も暮れきる」を読んだ。読後感は暗く、強烈で、凄まじく、俳人というより廃人まっしぐらの最期という印象だ。

ノンフィクション作家の「吉村昭」は最も嫌いな作家の一人である。読みだすと次から次へと読みたくなるので、実は困る作家で津村節子には悪いが最も嫌いな作家なのである。

吉村昭の歴史小説は、史実に忠実であることが大きな特徴であり、この点については歴史学者も評価しているそうだ。作品を書くにあたり、史料・古文書を丹念に調べ、現地にも足を運ぶ。関係者にしっかりあたる。こうして、時には学者も知らなかった事実を発掘することもあるという。

こうした地道な作業に裏付けられているがゆえの面白さであり、作品の厚み、懐の深さなのである。

放哉は日本を代表する俳人の一人である。小説を読み進みながら、今更ではあるが俳句の歴史をおさらいしてみた。

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・・・俳句の歴史・・・

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・前史(15世紀頃)連歌」と呼ばれる詩の形式が隆盛。
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松尾芭蕉の時代 16441694 日本史上最高の俳諧師の一人
  

       「古池や蛙飛びこむ水の音

             「閑さや岩にしみ入る蝉の声

       「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」

与謝蕪村の時代 17161784  江戸時代中期 

       「菜の花や月は東に日は西に

       「春の海ひねもすのたりのたりかな

       「山は暮れて野は黄昏の薄かな」   

小林一茶の時代 17631828 江戸時代後期 

       「名月をとってくれろと泣く子かな

       「雀の子そこのけそこのけお馬が通る

       「めでたさも中位なりおらが春

正岡子規の時代 18671902 近代文化に多大な影響

       「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺

       「いくたびも雪の深さを尋ねけり

       「牡丹画いて 絵の具は皿に 残りけり

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俳句革新運動「日本派」子規門下

高浜虚子の時代 18741959  明治・昭和期、ホトトギス

       「蛇逃げて我を見し眼の草に残る」

・河東碧梧桐の時代 18731937   新傾向俳句

          「曳かれる牛が辻でずっと見回した秋空だ」

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 碧梧桐門下→荻原井泉水→種田山頭火尾崎放哉自由律俳句

・荻原 井泉水 1884- 1976
東京大学卒、父親の雑貨商を継ぐ。自由律俳句 (定型=575や季語にとらわれない) 機関誌「層雲」を主宰、一時仏道を志して京都の禅宗寺院東福寺の塔頭に寄寓、以降各地への遍歴の旅が多くなる。91歳で天寿を全うした。

 (代表句)

   ・力一ぱいに泣く児と啼く鶏の朝

   ・たんぽぽたんぽぽ砂浜に春が目を開く

   ・うちの蝶としてとんでいるしばらく


・種田山頭火  1882- 1940
早稲田大学中退。種田酒造場破産。離婚後、寺男で一時生計。放浪し作品を作る。
「無駄に無駄を重ねたような一生だった、それに酒をたえず注いで、そこから句が生まれたような一生だった」と、山頭火は晩年の日記にそう記した。その時には、すでに無一文の乞食であった。その境遇は山頭火自らが望んだものだった。

  (代表句)

   ・まっすぐな道でさみしい

   ・分け入つても分け入つても青い山

   ・うしろすがたのしぐれてゆくか

   ・どうしようもない私が歩いている

   ・酔うてこほろぎと寝ていたよ

   ・笠にとんぼをとまらせてあるく

   ・風の中おのれを責めつつ歩く


・尾崎放哉  1885- 1926 
東京帝国大学法学部を卒業後、現:朝日生命保険に就職し、大阪支店次長を務めるなど、出世コースを進み、豪奢な生活を送っていたエリートでありながら、突然、それまでの生活を捨て、美しい妻も捨て、俳句三昧の生活に入る。各地で寺男をしながら生活、最後は小豆島の庵寺で廃人同様孤独な死で終わる。酒癖とクセのある性格から周囲とのトラブルも多かったが、多くの作品は山頭火同様に注目された。

  (代表句)

   ・咳をしても一人

   ・いれものがない両手でうける

   ・こんなよい月を一人で見て寝る

   ・足のうら洗えば白くなる




自由律俳句の代表的句者として、同じ荻原井泉水門下の種田山頭火と尾崎放哉は並び称される。山頭火、放哉ともに酒癖によって身を持ち崩し、漂泊・放浪の果て、師である井泉水や支持者の援助によって生計を立てていたところは似通っている。しかし、その作風は対照的で、「静」の放哉に対し山頭火の句は「動」である。



二人とも似ている点が多い。荻原井泉水門下の自由律俳人という他に、比較的恵まれた家柄に生まれている。しかし対人関係で挫折し酒に溺れて社会から脱落し俳句仲間から生活面でも援助を受けつつ寺男となったというかなり似通った面を持っている。修行のため各地を旅した山頭火、居場所を探して寺を転々とした放哉と区別される。相違点のもう一つには、放哉は東大卒、一流会社勤務、頭の良さを自慢して、酒に酔うと決まって相手を完膚無きまで論破し嫌われた事である。

俳人、イコール廃人の二人だが、歴史は二人の作品に親しんでいる。特に山頭火は世代を越えてフアンが多い。
反面教師の二人だが、何故か気になるのである。誰もがそうはなりたくない、でも一度だけの人生、思い通りに生きるのもよさそうだと思うからだろうか。

放哉の最後の場面は、結核が悪化し気管支炎、喉頭結核を患っていたため、声も出ず、食べ物も水さえも飲めず、トイレにも行けず苦しみながら死んでいく場面である。死んだ時の姿は骨だらけで、その上に皮が覆っている骸骨同様で、その辺は吉村昭お得意の描写で真に迫り読むに耐えられない。

その頃に読んだ放哉の句が
   「肉がやせてくる太い骨である 」 凄まじい創作意欲である。

漂泊の中に生を求めたのは、松尾芭蕉、小林一茶、井上井月、種田山頭火、尾崎放哉、西東三鬼などがいるが、それぞれ壮絶で波乱万丈の人生を送っている。 

近々、小豆島の旅に出るべく下調べをしている。ミーハーというか、好奇心旺盛なジジイは放哉のルーツをたどりたい一心の為に年金を費やする。

「二十四の瞳」の舞台が小豆島、オリーブでも有名な瀬戸内海の小豆島、島巡りはさらに続く。        





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